きらめく海を見るのは久しぶりだなぁ。自分の記憶への懐かしさと、海を起原とする人の本能が感じる懐かしさ。自分は戻ってきたのだろうか。今日の海は体をゆっくりと揺らすような感覚・・・、うまく説明できない。
今回は、息子とI籐君とで熊野古道の伊勢路松本峠へ行ってきました。一番列車で降りた無人の新鹿(あたしか)駅から海に出る。誰も居ない夜明け前。あ~、とても静かな海です。さわやかで、よせる波の音がわずかに聞こえてくるだけ。なんとも言えない心地よい朝の海岸歩き。
海と陸の境を行く歴史の道、熊野古道。ロマンチックですよね。同じ三重県に住みながら、いつか来たいと思っていました。現在大河ドラマ「平清盛」は、熊野詣によく出掛けたといわれる鳥羽上皇と待賢門院の出番が多い。これをきっかけに色々調べていたら、いても立っても居られなくなりました。
まず訪れた新鹿にある徳司神社。境内の基部は海で洗われた丸石を積上げています。海との繋がりを示すアイコン。縄文期の土器類が出土していて、元々イザナミなどの神を祭っていたのではなく、この場所そのものの持つ力を使って海難無事などを祈祷した場所だったともいわれています。本殿への階段横にある大楠は幹周7m以上もある神木。生命の「気」を感じる。また境内から離れた神木は不思議な玉が幹から成長していて、神の居所を意味する玉砂利を敷きます。歴史的に近いところでは、三河地方と海上関係があったことを示す「尾州」の文字が入った灯篭が慶応期に奉納されている。

はじめは巨木や巨石を純粋に崇める原始の自然崇拝、そしてその土地の漁業や鉱山など経済活動と関係するご利益信仰、また念仏や教義を旨とするもの、権力と結びつく権威信仰など、神聖な場所というのは信仰が時代を経て多層化していく。熊野古道を歩くと素朴で純粋な風土から、その土地の信仰変遷が見えてきます。
大吹峠の竹林です。むかし峠には茶店などがあったとのこと。家のあった場所には竹が植えられました。竹林はそのなごり。夏にやってきたら、清涼感たっぷりの峠歩きです。さわやかだなぁ、ちょっと短いですが山歩きの醍醐味を感じられる。
熊野古道といえば、石畳。熊野詣が盛んになりはじめた鎌倉期に作られたものは、石と石との間隔が広く重厚でどっしりとしたものが使われています。多雨から道を守るために敷かれた石畳。頑丈に作られたおかげで道は現代まで生き残り、私たちを過去へタイムスリップさせてくれます。歩くことそのものが歴史を感じる行為。しっかり据えられた敷石は浮いたり揺れるものはひとつもなく、そしてリズム感がある。一日に何十キロも歩き続けた昔の旅人を思って作られた道。その傾斜、石の配置、段差、千年の時間をかけて完成された道です。一歩一歩踏む石それぞれから何かが伝わってきます。
波田須の村はたくさんの花が迎えてくれる。リンドウやボタン。折々に花が咲きます。古道歩きの人を歓迎してくれている気持ちが伝わってくる。この村には、秦の始皇帝の命で不老長寿の薬を探しにやってきた徐福の墓があります。数世紀も前の渡来人の墓を守る波田須の人たち。やはりこの村の人たちは他所から来た人たちを大切にする土壌があるのか。オジサン、オバサン、すれ違う人たちの挨拶もさりげなく嬉しい。
大泊の砂浜には、たくさんのハリセンボンが打ち上げられていました。息子は興味津々。私もI籐君も童心に帰ります(嬉)。
鉄砲傷で有名な松本峠の地蔵。猟師が妖怪と間違えて鉄砲で打ったとされる。ここも竹林が素晴らしくて雰囲気がとてもイイ。休憩に好適地。
石畳は江戸期に入ると間隔が詰ってくる。素朴さは消えますが、職人仕事で洗練されて完成度が高い。この時期には熊野詣は庶民にも爆発的に広がって「蟻の熊野詣」とも表現されました。北アルプスの山小屋がするようにお客である旅人が歩きやすいよう道を整備したに違いない。また争議などがあった場合、奉行所から古道整備を言い渡されたこともあったといいます。江戸から300年、張り付いた杉の根が風格を感じさせます。
松本峠から海の方へ向うと絶景の展望地。七里御浜は20キロ以上続く熊野屈指の海岸線。8月にある先祖供養の花火大会は有名。どこまでも続く海岸線は見ていて飽きない。この海岸線の行き着く果てが熊野川河口、新宮熊野速玉大社です。海が穏やかなときの熊野古道はこの海岸線を歩きます。熊野古道でこれほどドラマチックな展望地はない。
さあ松本峠を降ると熊野の町です。木本高校野球部の掛け声が聞こえてくる。春の選抜は今日からだったか。梅や桃、早咲きの桜は散りかけていました。町まで食い込む山稜は熊野城があった要害山。その向こうが目的地の「花の窟(はなのいわや)」。
町のひなびた商店街はところどころに古い名残を残します。お風呂屋さんのアーチには、海の「波」と岩屋の「山」を表すシンボルでしょうか。街道のあちこちに海と神話のアイコンが隠れています。

海に出ました。薄曇りの今日は海の蒼がより深い気がする。古代装飾によく使われた瑠璃色にも見える。気が遠くなるような長い時間波に洗われた砂利浜。波が寄せる音と呼応して、ザーと丸く削られた玉砂利の寄せる音が印象的です。数十キロも続く浜は海と陸との境界線で見えなくなって、永遠に続くものかと錯覚させます。そして振り返ると、永遠の御浜の入口を護るようにそびえる窟(いわや)。
海から見る「花の窟」は、叢林(そうりん)に覆われる古墳形をなす。母神イザナミの墓といわれます。
花の窟を松本峠から望んだときには、母なる海に迫る山の神とも見えました。この大岩に綱を掛け花をつけた縄旗(かつては朝廷から錦旗が贈られた)を吊るす行事は現在も行われているが、それはさながら「海の神」と「山の神」との力比べ、綱引きとも想像してしまいます。
花の窟境内には手清めの横に大きな丸石が鎮座する。よく見ると海で洗われてできたものではなく、人の手であえて丸く削られた大石。海の神をシンボリックに飾ったのか。それとも「玉」と結びつけて男性(山)との関係を表したものなのか。またイザナミはここで火の神カグツチを産んだともいわれている。「玉」は「子」なのか、分かりません。
窟の本体たる大岩の壁は、火山性のものが海に侵食された岩肌。有史以前は火山帯だったと思われる紀伊半島。ここまで溶岩(火の神)が迫ったのか。地球の核から湧き出たエネルギーの痕跡。フリーで登れそうな(笑)手掛りは溶岩が冷えるときにできた空気の穴。
産田神社の玉砂利。七里御浜で洗われた浜石が本殿に敷き詰められ邪を払います。日本書紀には、イザナミはこの場所でカグツチを産み亡くなり、花の窟に葬られたとされる。鳥羽上皇の偽息、子になかなか恵まれなかった崇徳天皇は熊野には向わず産田神社に御幸したともいわれ、平安期には安産・出産祝いを祀る相当に尊まれた神社だったようです。またここには神雛(ひもろぎ)と呼ばれ、社殿のなかった古代の石で囲んだ祀り場が残っています。
産田神社で乳子の息災祈願に偶然出会いました。本殿の前で玉砂利の上に直に置かれた乳子を神主がお払いします。砂利石そのものが霊石とされ、邪を払い福をもたらすものだという古代の考えがこの儀式には残されていました。初孫だったのか、お祖母さまは本当に嬉しそうでした。
神雛(ひもろぎ)、そしてここにも神木を祀る祠と玉砂利。またまったく残念なのは、横を流れる産田川に面して禊場の遺構が残っていたのですが先の災害で川が氾濫し消失したようでした。
そして、この「産田神社」と先に行った「花の窟」は距離的に離れていますが、一対で信仰の場所を成立させていたようです。地形図で見ると産田神社と花の窟は完全に東西の位置関係になっていることが分かります。「東」は生命の出ずる方角で、「西」は黄泉国への方角です。イザナミはカグズチを産み、そして黄泉の国に去ったのです。この位置関係は生と死の通り道を強く象徴するために定めたと思われます。
もうひとつ、熊野灘は常に荒れている海で、海に面し山の迫る古道はいつも迂回を余儀なくされていました。海に突き出た花の窟も例外ではありません。今も海が荒れると花の窟と海の間を通る国道は通行止めされ、御神体の窟を貫く(驚)トンネルで迂回します。地図の上部、馬の戸から中央の北村地に破線があります。これが迂回する古道です。そして北からやってきた旅人は海が荒れていた場合は迂回路を通って山越えをし、そうです産田神社に出合いました。産田神社は海が荒れて花の窟を訪ねることが難しいときのための、代参地でもあったと思われます。
暴れん坊将軍で馬に乗った吉宗が走ってきそうな光景(笑)。実は熊野駅近くに車を置いてたので、それからは車で移動でした。本当は浜歩きはしなかったので、わざわざ車を停め二人を歩かせてこの写真を撮りました(笑)。
でも七里御浜はそれほど気持ちの良い光景だったんです。海と共に歩いた一日。こんな経験初めてだったので、嬉しくって三人ともずっとテンション高くって、私はこのブログを書くのも未だ興奮気味。とうとう収拾のつかない盛りだくさんになってしまいました。歴史夢想的な部分も多く、的外れで大間違いなところはお許し下さい。最近歴史探訪し過ぎて(笑)、こうなってくるとシンプルなアルペン登山の魅力が際立ってくるような・・・。それでも熊野古道と熊野の海、またやって来たいです。
花の窟の横にある「花の窟亭」でお昼を頂きました。海鮮丼など元々すし屋なのでネタが最高。皆で食べたサンマ寿司がまた旨くて、とりあえず入った店でしたが掘り出し物でした。
帰りに寄った熊野古道センターのお風呂「夢古道の湯」は海洋深層水の湯で、これがスゴイ!温まり過ぎるくらい温まって、いつまでも体が火照って大変でした(笑)。最高の湯です。
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